院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


同期会が残したもの


 昨年十一月に行われた中学校の同期会は、私の心に小さくはない「何か」を残した。「何か」とは何なのか、私には説明できる文才がない。しかしその事について書かずにはいられない情動は、幾ばくかの焦燥感を伴って私を捉えたままである。
同期会は二百人を越える大盛況。三十五年ぶりに再会した恩師や、かつてのクラスメートとの楽しい会話。昔話や現在の状況など話題は尽きることがなく、有意義な時間を過ごした。振り返ってみると当時の私は、一部の気の合う仲間以外の人とは距離を置く傾向があり、孤高を気取る鼻持ちならないヤツであったと思うのだが、愛すべき同級生たちは、そんな私の陳腐な気取りを、まるで意に介していなかったばかりか、こちらがびっくりするくらいフレンドリーに私の思い出話を、楽しそうに話してくれた。自分のことを棚にあげて言わせてもらえば、同級生たちの突き出したお腹や、さびしくなった額の生え際、子供や孫の話をする時の笑顔に刻まれる大小の皺が、三十数年前のあどけない面影と違和感なく重なり合い、自分を含めたひとりひとりの歩んだ人生が、いとおしくて、大切で、そしてなぜか切なくて、目頭が熱くなった。単なるノスタルジーでもセンチメンタリズムでもなく、ましてや年をとってしまったなあという、浅薄な感慨ではさらになく、心に深くしみ込んでゆく「何か」を感じたのだ。冒頭でも述べたように、その「何か」を表現するすべを私は知らない。いや今の私には出来ないと言ったほうがより真実に近い。「何か」の正鵠を射るには、うわべの文章力ではなく、自己を論理的に見つめる理性とそれに支えられた文学的資質が必要なのだと合点し、今更ながら自分の未熟さを痛感した。一縷の望み・唯一の手がかりは、それを表現することは「自らの人生の答」に繋がっているという予感。今年はその“何か”について考える記念すべき最初の一年である。


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